康子さんの 「海外で育った母と子の記録」 第15回
ころばぬ先の杖
松本康子
次女に、「お母さんは、親として何か子どもに伝えたいと思って子育てしてる?」と聞かれました。 「はい、それはいろいろありますよ。」 |
人が誰かと関わりながら生きていくのは、とても大切なことです。人と接することでいろいろな考え方を学び、それが自分自身の成長の手助けとなるからです。その中でも、人に対する気遣いと、ヘルプと問われれば手を差し伸べる事を学ぶのは、とても大切な事だと、子ども達を教育してきました。
<CaringとSharing>
子どもの幼稚園で、ある英語の言葉をよく耳にしました。日本ではあまり聞いた事がない言葉で、「Caring」 と「Sharing」です。
物の道理を理解しているかどうか怪しい幼児を相手に、先生やお手伝いのお母さん達が、子どもの遊びの中でよくこの言葉を使っていました。要は、遊びの順番を待ったり、好きなおもちゃで遊びたい時に起こるトラブルを、この言葉で回避しているようでした。
大人は、遊びの中にルールがある事、グループで遊ぶ時にはそのルールが優先される事を教えながら、皆が納得いく方法で遊びましょうと言いたいらしい。家庭でもよく使われるのでしょう。不思議なことに、幼児たちはこの言葉を条件反射のように受け入れてしまいます。日本語で言えば「他人への気遣い」や「分け合う」気持ちを、刷り込み教育されているのです。
渡米当初のこの印象のせいか、後にいろいろな視点でアメリカのカルチャーを見る事が出来ました。
<共存>
中古車がどういう物かも知らずに買って、道路の真ん中でエンストする羽目に遭った事があります。交通の邪魔にならないよう道路脇へ車を寄せたかったのですが、夫婦だけでは難儀をしていました。すると、2台の車がすっと止まり、それぞれの車から男性が降りてきて、" Do you need my hands?" と声をかけてくれました。この申し出をありがたく頂戴して、あっという間に片づきました。
車社会のアメリカで、自分自身が車に関していろいろな種類のトラブルに遭うたび、いつも誰かが手を貸してくれたり、また、他人が受けたりしているのを度々目にしてきました。車だけではなく、大型台風で被害を受ける地元民に対して、公的な支援はもちろん、個人レベルでの救援活動の様子をテレビで放映されます。よく聞いてみるとその中には、遠い州から仕事を休んで駆けつけたという人がいました。私では決して出来そうにない事を、この人はどうしてやれるのか、と考えさせられました。
その後、現地校でESLを担当する先生を集めた講習会に出席し、配布されたテキストの中にあった詩の一節を読んで、「Caring」 や「Sharing」と同じ意味を持ったカルチャーを知りました。それは、生徒が「共存」とは何なのかを理解させるのに、一つの例として紹介されていました。その詩を要約すれば、「あなたが受けた厚意に対して、自分も何かの形で相手に返したいと思いながら、それがその場で出来なくても嘆く必要はありません。あなたが出来る時に、出来る事を、出来る力量で、必要としている人へ返していけばいいのです。」と詠っていました。「目からうろこ」でした。
幼児の頃から聴いた言葉は、実際に行動する事で意味を持ちます。私たちが困っているの見て、躊躇なく手を貸してくれたり、仕事を休んでまで救援活動したりする事が、なんとなく理解できました。
<三女のボランティア活動>
つい先日、自分の勤める幼稚園に、園児たちに読んでやりたい本が置いてないから、本屋へ買いに行こうと誘われました。買いたい本へたどり着くまで、子どもの頃に読んだ本をあれこれ手に取っては、いちいち内容を説明してくれます。とても楽しそうに本選びをし、小遣いで2冊の本を買っていました。どうしてそこまでするのか理由を聞いてみると、「人に喜ばれる事をするのは気持ちいい」と答えたのです。そう言えば、三女のこういう心がけの兆しを見せるエピソードを思い出します。
ある日の夕食時のことです。子ども達同志で奇妙な手の動きを始めました。よく見てみると、どうも手話のようです。何をしているのかと聞いてみると、「お母さんに聞かれては都合の悪い」話をしていたらしい。また一体、どこで手話などを覚えてきたのでしょうか。
学校区の方針なのか、週に数時間、耳の不自由な子ども達と一緒に授業を受けていました。その子ども達との意思疎通を図るため、カリキュラムに手話が組み込まれていたようです。成績表に「手話」がなかったので、目の前で「都合の悪い話」をされるまで、知りようがなかったのです。そう言えば、それまで何度も、学校のイベントで、耳の不自由な生徒と保護者のための手話のサポートを目にしていました。この事が、後の三女のボランティア活動につながっていきました。
我が家の末っ子・三女の中学校の卒業式でのことです。保護者席で、娘が中学の卒業証書を受け取る晴れ姿をカメラに収めようと、そわそわしながらその登場を待っていました。その証書の授与式の前に行われる「Distinguish Recognitions」というアナウンスの後、突然わが子の名前を呼ばれて「エッ?」。隣にいた娘の幼馴染のご両親から「おめでとう」と声をかけられ、驚きと興奮で頭が真っ白。中学を無事終わったこともめでたいことでしたが、「Award」をいただく事は、全く知らされていませんでした。しかも2つとは。内容を説明されてまたびっくり。一つは「Perfect Attendance」。そして、中学2年間の昼休み時間を、Special Educationクラスの車椅子を必要とする、また、目や耳の不自由な生徒のサポートをした事に対して、表彰されたのです。個人の時間を、自分のためではなく他人のために使った事が大きなポイントだったようです。三女は高校でもやはり、卒業するまで1日も休むことなく、このお手伝いを続けました。
私のように、何らかの機会がなければ、分かっているつもりでも、子ども達が学校で習っている事を見落としがちです。三女のボランティア活動も、小学校で身体に障害のある同世代と接する経験があったから、影響を受けたのは明らかなようです。
<伝えたい事>
子どもを通じて、アメリカのいろいろなカルチャーを知ること度々です。その中でも、「Caring」 と「Sharing」を、「人の資質として備わるべき大切なもの」として、私自身が考えて子ども達を教育してきました。それを望む社会があり、子ども達がその社会の一員として生きるために、身につける努力を惜しまないだろうと信じているのです。
「INFOE」 2008年9・10月号(第22号)掲載