佐々先生の  海外・帰国  あれこれコーナー

第22回 「平和を作る学力」

 啓明学園の学園歌に「平和をつくる若人の」という一節があります。「平和」が争いのないこと、特に国と国との間の戦争がないことを意味するとしたら、海外に住む経験のある子どもたちは、そうでない子どもたちよりもその大切さを痛切に感じるはずですから、帰国生のために創立された啓明学園の学園歌にこの言葉があるのは自然なことだと言えます。

 平和の大切さに異を唱える人はあまりいませんが、皮肉なことに、多くの戦争が平和の名の下に始められます。平和を唱えるだけでは争いをなくすことができないことも私たちは知っています。平和の実現のためには、複雑な問題をしっかり分析し、理解して、適切な対応を考える知恵がなければなりません。それができる人はだれかということになると、外国に住み、いろいろな文化を体験し、国境を越えた友達を持つ子どもたちには、当然大きな期待がかかります。

◆オリンピックのときに

 今年の夏は、オリンピックがありました。「平和の祭典」と言われるオリンピックが、国と国とのメダルをめぐる争いの様相を呈しているのは果たして本来のオリンピック精神にかなっているのかどうか、はなはだ疑問です。しかし、国同士のメダル争いがなければ、資金を集めることもできず、オリンピックそのものが成り立たなくなってしまうのも現実でしょう。どんなオリンピックが望ましいのか、どんなオリンピックができるのかなどを考えてみることも、世界を理解するためのよい学習課題になるでしょう。

 海外に住んでいると、「国」という概念の不思議さ、不確かさを実感することがあります。オリンピックを見ながらいろいろなことを感じ、考えさせられた子も多いにちがいありません。

 小さい子どもたちは、住んでいる国の友達と同じ気持ちでその国の選手を応援することが多いでしょう。少し大きい子どもたちは「自分の国」と今現に住んでいる国とが必ずしも一致しない場合があることに気づくでしょう。いつもは仲良しの友達の中で、思いがけず不愉快な思いをさせられることもあるかもしれません。すると、「自分の国」はどこなのか、そもそも「自分の国」というものが必要なのかというような、根本的な問題につきあたることになります。

 法律上の国籍がある国、生まれた国、今住んでいる国、長く住んでいる国、友達が多い国、親が生まれた国、自分が属したいと思う国など、「自分の国」の要素はいろいろあります。国内で生まれ育った日本の子の多くは、これらの違いを意識する機会がなく、「国」について深く考えることもありません。

 アメリカのような国では、一つの教室の中に、「自分の国」に関していろいろな思いをもつ生徒たちが混じっています。家族の中でさえ、子どもと親がちがう国を「自分の国」と感じている場合があります。不法滞在の状況にある同級生がいるかもしれないし、生まれ育った国を離れ、アメリカ国籍を得られる日を待ち望んでいる状況の人と接することもあります。

 滞在許可などの深刻な問題などに直面すると、自分が「国籍」にしばられ、ある場合には法律によって決められた国を自分の国とするしかないことを思い知らされます。そのようなとき、個人と「国」、「法律」と生活などの間にあるたくさんの問題が浮き彫りになってきます。


◆「学力」をどうとらえるか

 国際紛争の処理に直接結びつくような決断をする人はほんの少数にちがいありませんが、今の子どもたちのだれかが、将来その立場に身を置くことは確かなことです。また、一つ一つの決断は、大統領や首相などの個人によってなされるように見えても、そこに至るまでには、大勢の人々の意見や、世論の動向など、たくさんの力がはたらくはずです。広い目で世界のできごとを見ることができる人を一人でも増やすこと、一人一人の洞察力を少しでも深めることなどが、未来の世界を救うことになります。

 若い人たちの力をつけるということから見れば、これは本来の意味での「学力」の問題ということができます。今や「学力」は、国の将来を左右すると言うだけでなく、違う国に住む人たちも力を合わせて取り組まなければならない重大な課題なのです。そして、海外に住む経験は、子どもたちに、「学力」をつけるための貴重なチャンスを与えていると言えます。この機会を生かさない手はありません。

 最近、日本で、文部科学省が春に実施した全国学力調査の結果が発表されました。例によって、マスコミで大々的に取り上げられ、少しの差の都道府県のランキングに一喜一憂する姿が報道されました。おそらく、これから、得点の高かったところで学校や自治体の取り組みが賞賛されたり、得点の低かったところで責任のなすり合いが起きたりすることが予想されます。

 心配なのは、学力テストの点数を上げることが至上命令になり、目先の点数に結びつかないようなものは、軽視されたり、不要とされたりすることになるのではないかということです。10年ほど前、アメリカで州の学力テストが導入され、その点数によって学校が評価されるようになって来た時、学校でテスト準備の時間が増えた反面で、私たち教師がよい活動だと思っていた行事が少しずつ姿を消していったことが思い出されます。

 「学力」を調べるために、テストは客観的で、有効な手段であることは確かです。しかし、どんなテストにしても、それで測ることができるものは子どもの力の中の非常に限られた部分であることをわきまえておかなければなりません。また、テスト対策が盛んに行われるようになると、そのテストで測った結果が、本来測りたい学力ではなく、テスト対策の有効性を反映するにすぎないものになる恐れもあります。

 子どもたちの学力がどんな状態なのかについては、テストの結果を参考にしつつも、子どもたちの生活の様子、具体的な学習の様子を注意深く見つめて、いろいろな角度から検討を加えなければなりません。学力を単に「高い」か「低い」かという一つのスケールでとらえようとするのは大きなまちがいです。

 先年、OECDのPISAテストでフィンランドがよい成績を収めると、日本からの視察が殺到して、フィンランドの人たちがびっくりしているという話を聞きました。はるばる出かけた人たちが、テストの点数を上げることでなく、子どもたちを本当に賢く育てるために視察の成果を生かしてくれることを願いたいと思います。「学力」が問われているのは、子どもたちだけではないのです。

 「INFOE」 2008年9・10月号(第22号)掲載


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